シンディ・シーハン 悲しみにくれる母から反戦運動のリーダーへ
2007年11月現在、イラク戦争開戦以来の米軍の死者総数は4000人に届こうとしています。この4000人は誰かの家族であり、愛する人であり、かけがえの無い友人であり、その死を悼む人の数も同時に増えていっているのです。
シンディ・シーハンは2004年4月4日に、当時24歳だった長男のケーシー・シーハンをバグダッド郊外サドルシティで亡くしました。ケーシーは軍用車のメカニックとして駐留していました。 息子を失ったあと、シーハンは戦争の正当性に、アメリカの親たちが若い子供たちを奪われることの正当性に、疑問を投げかけ、米政府の責任者との面会を求め続けました。ブッシュ大統領が二期目に再選されると、シーハンは他の戦没者の親たちとゴールド・スター・ファミリーズ・フォー・ピースという反戦団体を立ち上げ、ワシントンでのブッシュ政権への抗議行動などを展開してきました。
彼女が一躍マスコミの注目を浴びるようになったのは、キャンプ・ケーシーと名づけられたテキサスでの座り込み行動からです。テキサス州クロフォードの郊外にブッシュ大統領が所有する農場の外で、大統領との直接面会を求めて1ヶ月間の座り込みを行ったのです。大統領はイラクからの全面即撤退を主張するシーハンとの面会を拒否しましたが、このキャンプは全米、そして全世界から注目され、集まってきた賛同者とマスコミで日々膨れ上がり、シーハンを世界的な反戦リーダーに押し上げました。
しかし、2007年5月、下院の多数派を握った民主党が、イラク駐留軍の撤退期限を盛り込まない戦費追加予算案でホワイトハウスと妥協した直後、シーハンは反戦運動の表舞台からの引退を発表しました。このセグメントはシーハンへの直接インタビューの序章として、彼女の2年半にわたる反戦運動の軌跡を振り返ります。
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5月28日の戦没者記念日に反戦運動からの休養を発表したシンディー・シーハンが、息子ケーシーを失った日から反戦運動からの休養を決意するまでの足跡について自分の言葉で語っています。
ちょうど息子が殺された日の朝、その死を知る以前に彼女は何か不思議なものを感じたと振り返ります。そこから始まる喪失感と、悲しみ、痛み。そしてちょうど3ヶ月後の7月4日、独立記念日に、シンディは息子の死について語り始め、「以来、そのことを話すのを止められなく」なりました。
シーハンが「反戦の母」としてマスコミに注目され始めるのは、2005年8月のブッシュ大統領私邸前での座り込み運動「キャンプ・ケーシー」からですが、このインタビューではそれ以前に戦死者の家族としてワシントンで大統領と面会したときの様子を詳細に語っています。そのとき大統領はシンディを「お母さん」、ケーシーを「大事な方」と呼び続け、決して個人の名前を使って呼びかけなかったといいます。彼女が携えていったケーシーの写真も見ようとしませんでした。
シーハンが指摘するのは、米国の政策が戦争によって利益を得る個人や企業によって左右され、その中でケーシーのような個人が愛や平和のために死んでいくのではなく、顔の無い単なる駒として利用され命を落としていくことの不正義です。そしてそのことに関心を払うことなく企業の商業主義に踊らされている米国の大衆に対する焦燥感を語っています。
シーハンは彼女が引っ張ってきた平和運動のために多くのものを犠牲にしました。28年間続いた結婚生活、残された3人の子供たちとの生活、運動の為に投げ打った財産、そして彼女自身の健康。これらの犠牲が「生産的な前進」に結びつかなくなったと感じて彼女は運動からの休養を決心したといいます。その決心を大きく後押ししたのは、真のリベラルの理念を失いつつある米民主党が、ブッシュ政権が要求するイラク戦争への予算増加に妥協したことに加えて、彼女の側にあったはずの「左派」の人たちが、保守派の連中と同じ言葉で彼女を侮蔑し始めたことでした。
このインタビューでは、イデオロギーに基づいてではなく、親として息子の死の意義を希求するところから始めた運動が、思いがけなく世界的になり、さまざまな政治的思惑に絡みとられていったことへのシーハンの当惑が感じられます。政治の表舞台への再登場を期待する声に対して、シーハンは米国の政治システムには幻滅したと言い切ります。
世界中を驚かせたシーハンの「引退宣言」ですが、彼女がしようとしてるのは事態を投げ出すのではなく、行き詰った運動を休止し、体勢を立て直し、まったく別の角度から運動を再開させることです。彼女は言います。「私たちがまた戻ってくるとすれば、政治家を相手にするのではなく、人間性の為に働くでしょう。」 (石川麻矢子)
★ DVD 2007年度 第4巻 「2007年10-11月」に収録
* シンディ・シーハン (Cindy Sheehan) 団体ゴールド・スター・ファミリーズ・フォー・ピースの共同設立者。2004年4月4日にバグダッドで息子ケーシー・シーハンが戦死。
翻訳・字幕:駒宮俊友
全体監修:古山葉子